SONGS 1985-1987


no.20  1985年作
外が晴れているかどうかさえ
わからない
僕は閉ざされた地下室の中で
夢を見ることだけがただ一つ
楽しみで・‥・・・
それはいつの日かこのドアを開けて

外へ青空の下へ
僕は駆けて行く自由を抱き締めて
だけどそれは夢の中の出来事
一人寂しさに打ちひしがれる

外が晴れているかどうかさえ
わからない
僕は閉ざされた地下室の中で
前にだれかが無くしてしまった
部屋の鍵を今日も
闇の中見付け出そうとしている

外へ青空の下へ
僕は駆けて行く自由を抱き締めて
だけどそれは夢の中の出来事
一人寂しさに打ちひしがれる

足元に錆び付いた鍵を拾った
それは僕の心の扉を開く鍵

外は雨が降り続いてる
いつまでも
前に望んでた自由はどこにあるのか
だけど外にいるならいつか
晴れ間に出会うことも
夢とは言えない
 前に書いたように、この頃は、ボイラー管理をしている。
 ホテルのボイラー室にこもりっきりになる。たいがい地下2階とか、誰も寄り付かないような所だ。そこはボイラーが燃えたぎっているので、常に25度以上の室温であった。冬は良いが、夏は暑かった。
 歌詞の中の地下室というのは、いわゆる閉鎖された空間で、「閉じ込められた部屋の中」同様に大好きなシチュエーションだ。そこから脱出するための鍵というものがあり、それは心の扉を開く鍵という下りは、ありきたりかもしれない。
 それはそれとして、僕はこの仕事を辞めようと思った。今まで何度も同じように仕事をやめてきていたが、今回のそれは今までと違った。知人から紹介された仕事ということもあったが、目の前に目標があった。恋という名の目標であった。それはこの仕事をやめたところで手に入るわけではなかったが、もっと未来を見据えたしっかりした仕事につこうと決意したのだ。
 この地下室を出たところで、必ず晴れているわけではない。ただここを抜け出さないといつまでも晴れ間に巡り会うことなどできないのだ。
 そんな想いでこの曲は書かれている。
 今考えるとそこを出てよかったのかもしれない。結局その恋は実らなかったが、多くの想い出とともに僕の中で輝いている。
腕時計の詩
no.21  1985年作
12時を過ぎた腕時計から
解き放たれたのは自分自身で
束の間の自由を味わうのは
夢の中と言う訳さ

8時になる前にはもう
この鎖に繋がれて
現実の中へ
走って行くんだ

お前の主人の筈のこの俺を
奴隷としか見ないこの腕の鎖
お前を止めてしまうことも
俺にはできるというのに

叩き付けたい衝動
何かに怯え押さえて
人間の中に
走って行くんだ

お前を失ったとき
今の自分を保っていることが
できるかどうかが
不安に思えて仕方がない

朝、目が覚めたとき
お前が消えてしまっていたら
仕事に出掛ける事さえ
その意味を見失う
  書いたのは、「地下室」と同時期だと思ったが、実際はもっと後になってからかもしれない。
 心理テストか何かに「腕時計はあなたにとってなんですか。」というのがあって、その答えイコール恋人に求めるものとなるそうな。
 その答えは様々で、時間を知らせる道具、ファッション、社会人のたしなみ等、など。まあ、想像してみてほしい。
 この歌詞から判断すると、まず行動が縛られるというイメージがあり、今の自分を保つために必要なものであり、仕事に出かける意味を持つものということになる。まさにそのものズバリかもしれませんなあ。
 この頃はそれもいいかな、なんて思ったりもした。誰かのために自由を失うけれど、その人のために仕事に出かけていってその人の元に帰ってくるような生活の中に安定を求め始めていたのかもしれない。まあ今となっては、自由の方が大事だったと言うしかないか。
 腕時計そのものに関しては、ここ八年ずっと同じものを使っています。
 楽曲としては初めて三拍子の曲を作った。出だしのメトロノームのような音は、時計の秒針の音をイメージして作っている。
no.23  1985年作
白いコートの男が
街を意味なくさまよう
だけどその白が
本物かどうかは分からない

黒い雨が降るこの町で
シミ一つ無いコートなんて
ある筈がないから……

白いコートの男が
夢の最中をうろつく
だけどその夢の
持ち主が誰かは分からない

無気力な町を歩いては
だれが夢を見ているのか
この目にも見えない

君は白いコートを手に入れて
外へ出ようと思ってる

だけど黒い雨は降り続く
不幸と絶望を伴って

白いコートの男が
未知の彼方に消えた
  前に「都会は勝者の街」という曲で、白か黒の二元的な街に生温い風は吹かない、というようなことを書いた。ところが現実は、案外いい加減だったりする。白でもなく黒でもないのだ。その中に安住して、常に白にしようか、黒にしようか思いあぐねている人がほとんどかもしれない。
 それこそが一般小市民ではないのだろうか。もちろん僕もその一人なのだが、例えそうだとしても理想を捨てず、希望を持って生きていければなあ、という思いを歌詞にしたものだ。
 あえて難しい言葉を使わず表現しようとした時に「白いコート」というイメージがふとわいたのだ。白いコートを羽織って生きていきたいけれど、世の中の汚い部分を目にしていくことで、白でいられなくなっていく。
 この時期は20代の中で一番戦っていた時期かもしれない。そして訪れる挫折。バンドの空中分解。そして迷路に突入していくわけである。
no.25  1986年作
映画館の闇の中で
誰でもなくなった僕は
STORYを追うことに疲れ
眠りの世界に溶けてしまった

巨大な迷路の片隅で
いったい僕は何を見ているのだろう

仕掛けられたSHOWの中で
自分の立場を演じれば
今日一日は過ぎて行くだろう
明日の不安は残すけれど

巨大な迷路の片隅で
一体僕は何をしているのだろう

巨大な迷路の片隅で
一体僕は何を見ているのだろう

巨大な迷路の片隅で
一体僕は何をしているのだろう
 神田界隈で仕事をしていた頃、明日の自分に不安を抱きつつ作った曲。
 音楽仲間の知人が一緒になって作った。
 サビの部分の手直しを何度かしてやっと完成した。
 神田駅の近くに日活映画3本だてみたいのがあって、今のようにインターネットで動画を落としたり、ビデオがそんなに普及していなかった当時は、そんな所にいくわけです。この頃は何となく慣れっこになっていて、見ながら眠ってしまったりするわけです。
 映画館もそうですが、山手線も絶好の睡眠環境でした。3時間くらい揺られていたことがありましたね。「おや、さっきも新宿だったな。」なんてね。 
no.26  1986年作
孤独な街の冒険者
辿り着くべき場所も知らない

闇の訪れは近く
街灯が一つつく度
寂しさは増してゆく

孤独な街の冒険者
瞳に映るすべてのものは

君の孤独が今以上
増してゆくことを静かに
語ってるだけのこと

彷徨う君の肩をたたく
華やかに着飾った少女

今夜の予定は決まってないけど
求めているのはそんな物では
ないのさ

孤独な街の冒険者
辿り着くべき場所も知らない

闇はその深さを増し
足元を照らすライトは
薄暗く役にさえ立たない
 このころ良く聞いていたのがスージー&ザ・バンシーズ。「A KISS IN THE DREAMHOUSE」というアルバムの1曲目「カスケード」は名曲です。特に音づくりに関しては影響されました。
 たしかこの年に9枚目のアルバムとなる「TINDERBOX」を発表しているのですが、これが又名曲ぞろいでした。全体的にギター色が強くなり、ロックとしての要素が強調されていました。中でも「CANDYMAN」が大好きです。このうちの数曲の影響をもろに受けて出来たのが、この「孤独な街の冒険者」でした。
 歌詞の中の「彷徨う君の肩をたたく」というところ、東京に出てきて最初の頃、歌舞伎町を歩いていて、よく呼び止められたのを思い出して書きました。本音は怖かったのですが、当時は硬派でしたから動揺してない振りを通してました。ヒヤヒヤでしたね。
no.27  1986年作
黄昏時には口笛吹いて
寂しさ紛らす道化師たち
誰も他人の事など
気にもしないで帰りを急ぐ

今日も笑顛で一日
過ごしたけれども
明日もどうか涙だけは
流したくない
悲しみの涙だけは・・・

真夏の暑さはどこかに消えて
秋のカフェテラスは恋人たち
きっと回りの事など
気にもしないで話に夢中さ

今日も誰も憎まずに
過ごしてきたけれど
明日もどうか彼等の事も
祈り続ける自分でいたいのさ

今日もあの人の夢を
心に描いて
何時か二人は巡り合える
そんな気がする
黄昏の向こう側で‥・
 この曲もいろんなヴァージョンを作りましたが、もともとはアコースティックギター1本で録音したものが元祖です。なおかつ初めて口笛を披露するなどの特典付きでした。バラードを作曲したのも初めてでしょうか。
 詩の内容的には、「たそがれ」という言葉のイメージをモチーフに作り上げたが、自身のかなわぬ恋の行方を、「いつかは」という願いで結んでいる。
 16年後の2002年にアップロードした時は、ボサノバにアレンジしました。個人の予想に反して、意外と反響が多く気を良くして「夏の邂逅」という曲を作ったといういきさつがあります。
通り過ぎて行く風
no. 28  1986年作
通り過ぎて行く風には
この街は似合わない
この街の人込みもざわめきも
ましてネオンライトの下の
数々の不幸な物語
通り過ぎて行く風には
この街は似合わない

走り抜けてゆく子供は
大人びた目をしてる
この街の醜さを見つめては
それが世の中とさえ思う
何時までも繰り返されてゆく
走り抜けてゆく子供は
大人びた目をしてる

たとえこの街が
亡くなったところで
涙を流すものはいないだろう

だけどこの街が
なくなったところで
変わりはしない
それが世の中というもの

通り過ぎて行く風には
この街は似合わない
この街で生まれたと聞かされても
何も思い出にさえできず
押し寄せる今を生き抜いてる
通り過ぎてゆく風には
どの街も変わらない
 このころYOU AND Iというレンタルレコード屋が全盛を誇っていて、自作曲のコンテストを行った。応募してみたが落選した曲がこれだ。しばらくして当選曲を集めたオムニバスレコードが送られてきた。どの曲も力作だったが、なぜこの曲の良さがわからんのだ。と思うのは自分だけか。
 YOU AND I(友&愛)が全盛を誇っていた証拠でもないが、1990年頃には、吉祥寺に直営のカラオケ屋があった。そこの会員カードを持っていてよく利用した。尾崎豊とか安全地帯とか、徳永英明とかをよく歌った記憶がある。一緒によく付き合ってくれたR.Yさんもきっとどこかで良い奥さんになっていることだろう。
 その頃は、某眼鏡店に勤め始めて、中堅クラスとなっていた。吉祥寺勤務になって2年目だっただろうか。上り調子の時である。
no.29  1987年作
地下道の階段を下りはじめたときから
今日はなんだかいつもと違う風が吹いてた

舞い上がる埃とラッシュに押しやられ
何がなんだかわからないうちにドアは閉じた

ガラス窓の外は無限の闇
時折ライトが通り過ぎる
そして良く見れば精気のない誰かの顔
俺を見ているもう一人の俺さ

地下鉄はとまらずに走り続けているだけ
みんなうつむき音もたてずに眠っている

行き先など誰にもわかりはしない
乗換駅でさえ案内もない
そして誰一人騒ぎ出すそぶりも見せずに
夢を見ている
与えられた未来を

不規則な振動で浅い眠りから覚める
次の駅がもし来なくても
飛び下りて、この闇を歩くだけさ
 この頃、本気で就職活動などを考え始めていた。アルバイト生活をしながらバンドのまねごとなどをやってきて、遅蒔きながらちゃんとした生活をしようと模索していたのだ。それでも地下鉄に乗るたびに通勤客の無表情さをばかにしていた。ところがどうだい、それは今の自分の顔になってるんだぜ。大人になるとはこういうことかい。
 実質的にはこの曲が20代最後の曲かもしれない。「通り過ぎて行く風」や「HEY BOY!DO IT!」といった投稿作品が、何かしら評価を得ていれば、人生変わったかもしれない。
 2002年MP3TOKYOにアップロードすることになって、歌詞の一部を変更しました。(少し前向きに!)

MP3TOKYO…2007年頃「NEXT-MUSIC」に変わり、2010年突然の閉鎖。途方に暮れている。

HEY BOY!DO IT!
no.30  1987年作
汗も流れるはずさこれだけ動けば
唯-つの目的のため
何を言われてもいいさ
いつかは多くの人々が
時代が自分を認めてくれるはずさ

HEY BOY!DO IT! WOW!
目の前にあるものを遠ざけないで
やり遂げてみせろ WOW!
HEY BOY!DO IT! WOW!
束の間の人生に
輝いている黄金の時を刻め

夢はだれにも語らずこの胸の奥に
時々はそれもどこか
遠ざかるような気がする
それでも逃げ道はないのだし
若さにまかせて走り続けて行けばいい

HEY BOY!DO IT! WOW!
目の前にあるものを遠ざけないで
やり遂げてみせろ WOW!
HEY BOY!DO IT! WOW!
束の間の人生に
輝いている黄金の時を刻め

今は降り続く雨も明日は晴れる

HEY BOY!DO IT! WOW!
目の前にあるものを遠ざけないで
やり遂げてみせろ WOW!
HEY BOY!DO IT! WOW!
束の間の人生に
輝いている黄金の時を刻め
 創刊間もないフロムエーというバイト情報誌が、ワークソングコンテストを行った。最優秀曲はフロムエーのCMで使われる予定だった。軽い気分で仕事しようといったノリが受けていたせいか、やはり落選した。テーマが重すぎたかもしれない。CMで使われたのは、いかにもという作品であった。数日後、フロムエーから参加記念のギターピックが送られてきた。
 1987年に某眼鏡店に就職し、生活の立て直しを図った。金銭的にもきつかったし、将来も見据えないといけなかった。とにかく3年真面目に勉強した。余裕が出てきた頃、また音楽制作を始めることになる。20代に書いた曲にナンバーを振ってみると、この曲で30となっている。実はもう少しある。ただあまりにもレベルが落ちるので(さらに落ちるんです!)、これくらいで勘弁して下さい。
これは 星空文庫TOKYO EARLY 3 YEARS −1982年− を参照いただければと思います。まあ、かいつまんで言うとアマチュアロックバンドの名前です。

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